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『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』/重なる声と、重なりきらない声。

同じソプラノでも、自分とは随分違う声がある。
バイオリニストの映画なのに、なんで歌の話から入ってんの?って感じですけども。
まあまあ、お付き合いくださいましよ。

『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』を観た。
何年ぶりかな。最初に観たのは新宿の映画館だったんだけどさ。
サブスクで出てるっていうから、懐かしさをつついてみたわけさ。

バーナード・ローズ監督による本作では、デイヴィッド・ギャレットがニコロ・パガニーニを演じる。ジャレッド・ハリス演じるウルバーニは、その才能を世に送り出しながら、彼を自分の支配下へ置こうとする。作品情報:デイヴィッド・ギャレット公式サイト

すごく乱暴にまとめると、才能と愛と孤独?かな。
気になったら観てくださいまし。
音楽やってた人とかは結構楽しめると思うし、美しい男性を見たいという人にもオススメ。
ギャレット氏があまりに妖艶というか、「なんだこの人?」ってなれると思います。
カメラワークも、もうグルングルンしてて面白いっすよ。
カメラの動きも、落ち着いて演奏を鑑賞させてくれる感じではないというか。
演奏する人へ近づき、角度が変わり、その身体を追っているうちに、音を聴いている自分まで巻き込まれていく。
指を確かめたいと思っていたのに、気づけば顔や姿勢に見入っている。
自分が演奏を眺めているのか、その場の熱に持っていかれているのか、少し怪しくなる。
だからあれ、構成も技術も演者も、とてつもねえ作品だよって話です。

でね。
この映画のパガニーニを見ていると、思うところがありまして。
魅力的なパフォーマンスと、愛されたがる気持ちの近さを考えてしまう。
大勢から見られ、求められても目の前の一人に愛されたい気持ちまでは満たされない。
拍手がいくら増えても、欲しい返事が返ってくるとは限らないんだよな。

魅力的なパフォーマンスができる人って大体「恋」の経験が多いわけです。
恋っつうかなんつうか。愛されたがりの暴走が行き着く先っていうか。
いや、私も恋愛のなんたるかはよく分からんのですけども。

パガニーニも例に漏れずな人だったようで、作中で少女すぎる女神みたいな歌手が出てくるのね。シャーロットという若い歌手。
ヴァイオリンの演奏に目を奪われながら、女性の歌声に触れたところで、かつて自分も歌っていたことを思い出したわけなんですよ。
小学生〜高校生まで合唱やってて、自分の立ち位置がわかったのは高校生の時。

当時の声種は「ソプラノ・リリコ」、あるいは「ソプラノ・リリコ・スピント」。
自分の声を説明するための言葉として覚えている言葉です。
違いは今でもあまり分かってないんだけど。
ざっくり言うと「ソプラノにしちゃあちょっと湿っぽい重みがある」みたいな感じ。
音楽用語的にはもっとちゃんとした説明があると思うんですが、いいのいいの。
私はプロでもなんでもないので(開き直り)。

自分の声は、集団の中で少し扱いに迷う声だったと思う。
「悲痛さや哀切、不満ではないが似たような何かを訴える響きがある」
そういう声してるよ、と先生に言われた。
だからメロディを歌いたいでしょ、と。

ぶっちゃけ絶望だった。
いや、メロディラインを歌えるのは光栄なことなんだけどもさ。
16~18歳ながら、それなりの鬱屈もあったんだろうけど。
そんなことよりも「メロディを歌いたいでしょ?」と言われたのがどうにもショックだった。
ハーモニーの重要性というか、かっこよさを知ってたから尚更というか。
自分の声から、自分の望んでいる場所まで決められたような気がしたのかもしれない。

まあ今思えば、よくある「承認欲求」の一種が暴走してたんでしょうね。
認めてほしかった気持ちも、あったと思うし。
「声が固い」「響きすぎる」「合唱ではなくソリスト向き」
散々言われた。顧問だけじゃなくて、外部の講師にも言われていた。
一人で目立ちたかったのかといわれると、何とも言えない。
当時は自分自身のことに必死だったし。

で。
ここで頭を悩ませたのは、いわゆる「団体芸」の中で、この声をどう使うのか。
馴染みづらい異分子を、どう活かすか。
先生もそれなりに迷ってくれていたようで、大会ではちょいちょいソロに回されていた。
必ずしも「ソロ」=「上手い」ではないと気づいたのは高校3年になる直前だった。遅。
学生合唱のソロは、団体や選曲にもよるけど「主役」ではないんだよね。
ミクローシュのミサ曲を歌った時に気づいた。
高2の冬だったかな確か。

一人で歌う場所を与えられることと、みんなの声の中に自然に収まることは別。
今、この映画について考えていると、その違いが思い出される。

人々は、演奏を聴くために集まる。
普通ではないものを見たいと思っている。
非日常を求めて、チケット争奪戦の荒波に飛び込んでいく。
パガニーニのステージもどうやらそうだったようです。

誰にも真似できないらしい。
女性が卒倒するほど美しい男性らしい。
しかし「悪魔」と呼ばれているらしい。
何か、とんでもないことが起きるらしい。
その期待が、音の鳴る前から会場を満たしている。

暗い室内に浮かぶ顔や、衣服に包まれた身体。
画面の中に彼の姿が現れただけで、こちらも、すでに何かを待ち始める。
すごい人だと聞いてから見ると、すごく見える。
まだ音を聴いていないのに、パフォーマンスも見ていないのに見方が決まり始めている。
そのスタートから自由は消尽しているし、「その人」はもう見えなくなる。

けれど、ギャレットの演奏する身体を見ていると、噂とは別のところへ目が向く。

左手の指が動き、右手が弓を運ぶ。
速い音が続けば、どうしても指を見てしまう。
そのあとで旋律が長く歌われると、今度は音の伸び方や、次の音へ渡される瞬間が気になる。
実際にヴァイオリニストである人が演じていることで、音と動作のつながりを見続けられる。

超絶技巧という言葉でまとめる前に、目の前で起きていることがある。
細かな音を積み重ねて人を驚かせる演奏にも、長い旋律で耳を引き留める演奏にも、それぞれ身体の働きがある。
座ってるだけなのに、全身が千切られてしまいそうな引力がある。
千切れてなかった。よかった。

そして作中で耳にする、コロラトゥーラの歌唱。
あの小鳥のスキップみたいな歌声で正気に戻った。
私のセクシャリティは「ストレート」だけど、軽やかな女性の声もほんとうに好きだ。
到底、私には出せない音。作り出せない世界観。
同性の自分から見ても可愛らしいと分かる、純真無垢な「いとけなさ」。
細かな音を軽々と渡っていく足取りの軽やかさ。
一音ずつ確かに聞こえるのに、そこに留まらず、もう次の音へ移っている。
その弾みを、いつまでも聴いていたくなる。

声種の分類と歌唱の技巧は、きれいに分け切れるものではない。
コロラトゥーラには、走句やトリルといった装飾を自在に歌う意味もある。
用語解説:English National Opera

それでも、他人の声を聴いて、自分の声との距離を感じた。
同じ人間の身体から、こんな音が出るのか。
歌っていた経験があるぶん、不思議だった。

悲痛さや哀切、何かを訴えるような響きを持っていたらしい自分が、小鳥のスキップみたいな声を好きになった。

自分にはない軽やかさへの憧れもあるのだと思う。
ただ、その声になりたいのかと聞かれると、それだけでは説明できない。
自分が歌わず、聴いている側にいられることもうれしかったから。

次は、どんなふうに音を渡るのだろう。
そうやって耳で追いかけている時間が好きだった。
コロラトゥーラの自由さは、いつまでも自分の憧れで居続ける。

一方で自分の声にも、ほかの人からすると、耳を向けずにはいられない何かがあったのかもしれない。
ただそれが、どんな曲の、どんな場所でも歓迎される特徴だったとは限らない。
合唱では、一人の声がよく聞こえればそれでいいわけじゃない。
隣の声と重なり、パートとしてのまとまりを全体の響きにさせる必要がある。
「ある声」が入ったことで、言葉の意味や曲の表情が強く傾くこともある。
自分は、その「ある声」の側だったのかもしれない。

先生がどう使うか迷っていたという話を、今度は少し違う角度から考えてみる。
声に特徴があることと、その特徴を生かせる場所がすぐに見つかることは、別にある。
大会でソロに回されるのも、その場所を探してくれた結果だった。

それでも「自分は特別だった」という話にはまとまらないのが現実。
今でこそ他人との違いが明確であることは強みだけども。
コミュニティで色を変えちゃうから困りもんだよね。

集団の中で扱いに迷う特徴があった。
一人で歌うことで使える響きと曲が偶然にも存在した。
そのくらい具体的なことだったと思う。
「光栄なことじゃん」と言ってくれる人もいたけど、プロならそうだよねという話。
単純な、シンプルな話。

映画の中のパガニーニと自分の歌の経験を並べて、才能の大きさを比べたいわけではない。
気になるのは、周囲との違いが見つかったあと、その違いがどう扱われるのか?ということ。

全体の響きを聴きながら、その声の置き場所を探す人もいる。
際立つ部分を取り出して、人を集めようとする人もいる。
ウルバーニを演じるジャレッド・ハリスに、後者の怖さがある。
その人の何が人を惹きつけるのか、よくわかっている。
だからこそ、その部分を繰り返し差し出させることもできる。
韓愈の「雑説」にも名馬と伯楽の話があるけど、それがひん曲がった感じだよね。

しかし何よりギャレットの表現力は凄まじかった。

才能への理解が、そのまま本人への配慮になるわけではないこと。
多くの人に羨望と憧憬の眼差しを向けられる代償に「孤独」があること。
知らないはずの「光」の快感と鬱陶しさ、「陰」に安寧があると信じる盲目さ。
なんの予告もなく、真っ直ぐ射抜くように突きつけられた。
やっぱり、どっか千切れたんじゃないかな。ないか。

何が人を惹きつけるかを知っているからこそ、その部分を繰り返し差し出させることもできる。
大きな身振りで支配を示し続けなくても、彼がそばにいる場面には、逃げにくさが残る。

期待されている姿で現れ、期待されている音を出す。
それを続けているうちに、自分自身ですら、その姿から離れにくくなるのかもしれない。
声にも、似たところがあると思う。

悲しさのある声だと言われる。
訴える力があると言われる。
その言葉は、自分の声を知る手がかりになっていた。
けれど、それだけが自分の声だったんだろうか、とも思う。
「先輩すごかったです!」と言ってくれた後輩たちの方が、何倍もすごかったし。

穏やかなことを歌いたい日があった。
楽しいことを歌ってる日だって実際に存在した。
下手くそな子守唄みたいな鼻歌を、自宅でひとり、自分に聞かせていることもあった。
人から見つけてもらった特徴は、もちろんありがたかったけど。
でも、その特徴を毎回証明するために歌うようになってたら、窮屈だっただろうな。
そう考えると、ある意味バカでよかったです。

当時から「訴えたいこと」なんてひとつだったもんな。
正直に言うけど、「聴け」としか思ってなかった。
ハーモニーの中にいたいと思いながら、舞台に立てば、聴けと思っている。
ね。横柄な高校生だったんだぜ?楽譜も読めなかったのにさ。笑っちゃう。
でも、激情だけが自分じゃないことを、あの頃からちゃんと分かっていた。

役割を見つけてもらえることはありがたい。
そのポジションを求められることは嬉しい。
パンピーの自分でも、それはよく分かる。
だからこそ、応え続けることはきっと想像を絶する苦労がある。はず。
応え続けることは努力だと思う。応え続けざるを得ないのは苦労だと思うけど。

この映画は、演奏する人だけでなく、その人を見ている人たちも映す。
自分も客席に混ざって、驚き、惹かれている。
その途中で、昔、集団の中でどう響かせるか迷われていた自分の声を思い出す。
誰かの華やかさに憧れたことも、自分の声が周囲と少し違っていたことも、どちらもある。

同じように歌いたかったのか。
違う声だからこそ、聴いていたかったのか。
歌の楽しさだけを見ていたから、嫉妬はなかった。そう言い切れる。
自分がコロラトゥーラだったら違和感で喉を引っ掻いてたかもしれない。

この映画を改めて観て、他人の演奏を聴いていたはずの耳が昔の自分の声を探し始めた。

あの頃の声を覚えている。
なんならYoutubeに自分たちの声が残ってたりする。
今はもうファルセットも死んでるけど、そらで歌える曲はいくつもある。

結局、聞くのが怖くて10秒くらい飛ばすんですけどね。自分のとこだけ。
だから、穴が空いてるんです。
時間軸の象徴とも言える「音楽」に。

不思議だよね。

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