本文へスキップ

緑色のうさぎの話 / 違う色のまま、ここにいる

作品:緑色のうさぎの話
著者:道尾秀介/半崎信朗・絵
◼︎書籍・資料情報◼︎

大人になって、初めて自分のお金で買った絵本の話をします。


『緑色のうさぎの話』は、道尾秀介 氏の文章に、半崎信朗 氏が絵を添えた絵本。
道尾氏が17歳の冬に書いた原作をもとに、いじめや大切な存在の死を経験する緑色のうさぎの姿が描かれている。
2014年に朝日出版社から刊行。
書籍情報:朝日出版社

タイトルのとおり、緑色のうさぎが出てくる。
そのうさぎは、色が違うという理由で、ほかのうさぎたちにばかにされている。
遊ぶときも、ごはんを食べるときも、ひとり。

遊びに入れてもらえないことと、ごはんも一緒に食べられないこと。
どちらも仲間外れには違いないけれど、続けて考えると、逃げ場がない。

遊びが終われば寂しさも終わる、という話ではないのね。
おなかが空いて、何かを食べる時間になっても、やっぱりひとりでいる。
物語の導入:札幌市図書館・書誌情報

緑色のうさぎは、夜が好きだった。
暗くなると、自分の色をみんなに知られずに済むから。

でも、朝が来れば、また自分が緑色だと思い出す。
該当場面の紹介

夜が好きな理由が、それなのか。

静かだからとか、星がきれいだからとか。
そういう理由であってほしかったな、と勝手なことを思う。

暗いあいだだけは、色を気にせずにいられる。
朝になって周りがよく見えるようになると、また自分の色を意識してしまう。

明るくなることが、必ずしもうれしくない。

緑色そのものが寂しい色だったわけじゃないはずなのにね。
ほかのうさぎたちと暮らすうちに、その色と寂しさが結びついてしまっている。

自分の身体にあるものだから、置いていくこともできないし。

ざっくり言うと「みにくいアヒルの子」みたいなイメージ。
かといって仲間ができました、よかったね!っていう希望〆の物語ではなく、切望→成就→絶望、という見事なまでの容赦のなさが訥々と続いていく。

大人の読書の棚にも、絵と言葉を一緒に受け取れる一冊。

絵本には「文章を読んでいる時間」と「絵を見ている時間」がある。
どちらも同じ速度で進むとは限らない。
文章の先が気になってページをめくることもあれば、一枚の絵の前で長く止まることもある。
その行き来は、開かなくちゃ分からない。

短い文章だから扱う問いも小さいとは考えずに、ページの中の言葉と絵、それぞれの立場に目を向けてみる。

「違いを受け入れる」という言葉を考えたとき、誰が誰を?とラビリンスに入った。
受け入れる側に立ったつもりでいると、自分が場所を与える人のようになってしまう。
だって相手は、許可をもらう前からずっとそこにいるのに。
違う色に驚いたり褒めたりすることより、その色の人が安心して過ごせるようにすることのほうが必要な気がする。

「Reclaiming my own color.」という言葉を掲げる場所に、この本を置くことには意味がありそう。
ただし、サイトの言葉に作品を閉じ込めて「同じ話だった」と決めてしまわないようにしなくちゃね。


自分の色を取り戻すことと、違う色の誰かと同じ場所にいること。
近いところも、違うところも考えながら、両方が手元にあること。
色について考えるなら、きれいな比喩になる前の、その人を丸ごと受け止めること。

「自分の色」という言葉は好きだけれど、あまり簡単に使えないところもある。
違っていていいと言うのは、いつもその違いを理解している人とは限らない。
周りと違うことで傷つく人へ「個性だから大切にしよう」とだけ伝えても、その日の痛みがなくなるわけじゃないし、結局苦しみは苦しみのまま。

自分の違いをわかっていても、傷つく日はあるだろうし。
誇りに思えない日だってあるだろうし。

というか、毎日そんなに立派でいられんよね。

その色が好きな日も、今日は勘弁してくれと思う日もある。
どちらの日にも、ごはんを一緒に食べる相手がいたらいい。

この絵本を読んで考えたのは、そういうことだった。

でもね。
「他人と違う」と自覚できていることは、ちゃんと強いんだよ。
だから、全然大丈夫なんだよ。
どちらかというと「普通すぎる」ことに苦しんでいた私が言うのもなんだけどさ。

ね。
物語のあと、うさぎはどうしたかな。
自分の色を、恨みつづけちゃったかな。
仲間に愛されたことを、そっと思い出すのかな。

同じ思い出が、ある日は支えになって、別の日には余計に寂しくさせることもあるんだろうな。

あの夜が好きだったうさぎに、今はどんな朝が来ているんだろう。

「寂しい」って、ちゃんと言えてると良いんだけど。

← CULTURE 一覧に戻る